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紫野の大工さん 長尾工務店のロゴ

紫野の大工さん 長尾工務店について

「紫野の大工さん」長尾工務店は、我が国の古都であり、日本建築のふるさとでもある京都の建築施工店です。

京都市街北部の「紫野(むらさきの)」を拠点として日々業務に励んでおります。紫野は平安京北郊にあった朝廷の狩猟場にちなむ名で、また長尾工務店の所在地「雲林院(うんりんいん・うりんいん・うじい)」も、平安初期の淳和(じゅんな)天皇の離宮にちなむ名で、共々古代の名残りを伝えています。

そのような歴史ある環境のなか、長尾工務店では、住宅や事業所の新築・改築・修理のほか、電気・水道などの各種設備や庭回り・車庫などの外構に至るあらゆる施工に対応しています。なかでも、大工棟梁・親方でもある店主・長尾唯一郎の長年の経験と木材への愛着から、伝統的な木造建築を得意としております。

一方、現代的な木造建築やマンションの内装工事などにも習熟しておりますので、ご予算やご趣味に合わせた、伝統工法と現代工法、伝統建材と新建材の折衷などによるモダンな施工も得意としており、住居や店舗用の町家改装などでご好評を頂いております。

住まいや建築に関するご要望やご相談がありましたら、小さなことから大きなことまで、どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。紫野の大工さん長尾工務店は、建築にこだわりと愛着をもつ、全てのお客様との出会いを楽しみにしております。

紫野の大工さん長尾工務店紹介画像

長尾工務店詳細

創業20年・経験30年以上、地域と共に

紫野の大工さん長尾工務店は、平成11(1999)年に店主・長尾唯一郎により設立され、20年以上に渡り地域の皆様のご愛顧を受けてまいりました。これからも鋭意活動を続けますので何卒宜しくお願いいたします。

 
設立 平成11(1999)年
建設業許可 京都府知事許可 建築工事業(般-26)第40234
代表所在地 〒603-8214 京都市北区紫野雲林院町89
代表者氏名 長尾 唯一郎
長尾 唯一郎

長尾 唯一郎

紫野の大工さん長尾工務店 代表

「紫野の大工さん」その人であり、店主・親方を務める長尾 唯一郎(ながお・ゆういちろう)は、この道30年以上のベテラン大工です。材木や自然をこよなく愛し、その感性を活かせる仕事への愛着と誇りをもって日々業務に励んでいます。

上掲画像 材木市場でお目当ての逸品を見つけ、喜びを隠せない店主・長尾 唯一郎。

長尾工務店の拠点「紫野」紹介

紫野の由来

「紫野の大工さん 長尾工務店」の拠点である紫野は、工務店紹介でも記した通り、平安京北郊にあった朝廷の狩猟場及び行楽地にちなむ地名です。古くは「禁野(しめの)」とも呼ばれ、桓武天皇により現在の京都市街中心に平安京が造られ、遷都が行われた延暦13(794)年の翌年から遊猟記録が残ります。紫野の名称自体は平安以前から存在し、そこに含まれる「紫」の語は王宮や高貴を表わす「紫微(しび)」、「野」は農耕(特に稲作)に適さない扇状地や台地等の荒地を意味するとされ、土地の用途や性質を表わしているとされます。

紫野の歴史

紫野は「京都七野」「洛北七野」とも呼ばれた都北郊の原野の一つとして遷都後の歴史の歩みを始めますが、早い時期から雲林院や紫野斎院・今宮神社等の御所や祭祀場が造られ、また中世からは大徳寺が開かれるなど、独自の発展を遂げます。また、都近郊の畑作地、山陰方面への交通要地として、それらに関わる集落や、寺社の門前町も形成されました。そして、近世江戸期以降は隣接する西陣の影響を受けて西陣織産業が進出し、近代明治以降は京都市街の拡大に伴い市街化して現在に至ります。

紫野の地理的特徴

紫野の詳しい範囲は不明ですが、旧平安京北郊に当たる、現京都市街北部の京都市上京区北部と同北区南部の凡そ2キロメートル四方と考えられます。現在でも、その範囲内の多くの地域で、旧大字(おおあざ)地名に残った紫野の名が町名の先頭に使われています。範囲内の西北には京都盆地の北のランドマークであり、平安京造営の中心基準にされたと推測される船岡山があり、西は古代から近世までの葬送地・蓮台野(れんだいの)や鷹峯(たかがみね)台地、東は賀茂川近くに接するため、西や北が高く、東や南が低い地形となっています。また、範囲外の西隣には五山送り火の一つとして有名な「左大文字」があり、まさに当サイトトップ画面の屋号イラストも、左大文字の右側(東)に広がる紫野に所在する長尾工務店の様子を表わしています。

船岡山山上とそこから見た京都市街(左)と左大文字

船岡山上から見た京都市街(左)と左大文字(右)

船岡山は紫野西北の市街に浮かぶ標高111.6メートルの舟形の小山で、平安京の正中線北延長上にあるため都造営の基準とされたのではないかと推測されています。「丘は船岡」と、かの清少納言も称えた古来名高い景勝地で、今も樹々の緑に恵まれています。また、都と丹波・山陰を結ぶ街道「長坂越」傍の要地として、戦国期には城が築かれ、今も堀跡等の痕跡を残し、全域が国指定の「史跡」、そして市立公園として内外の人々の歴史探訪や憩いの場となっています。

船岡山山腹の建勲神社の桜と紫野市街の果てに聳える比叡山

建勲神社の桜と、紫野の市街地彼方に聳える比叡山

建勲(たけいさお。通称「けんくん」)神社は船岡山東山上に明治初期(19世紀後半)に創建されたお社です。明治天皇のご意向により、日本をまとめ、欧米列強の侵略を防いだ始祖的人物として、織田信長・信忠親子が祀られています。紫野では比較的新しいお社ですが、秋の「船岡大祭」を始め、今では地域に欠かせぬ存在となっています。また、眺望や景観に優れた立派な諸社殿や、春の桜・秋の紅葉などの見所も多く、著名古社寺とは一味違う名所となっています。

京都紫野の今宮神社の楼門

鮮やかな朱色で紫野に華やぎを添える今宮神社楼門

今宮社の正門である楼門は大正15(1926)年に造られ、近代社寺建築の特徴を備えるものとして国の登録有形文化財に指定されています。今宮神社自体は平安中期の長保3(1001)年に疫病退散を願う朝廷主催の御霊会(ごりょうえ)の神殿としてこの地に創建。毎年4月に行われる、京都三大奇祭の一つとして名高い「やすらい祭(鎮花祭)」は、御霊信仰と風流芸能が結びついたもので、平安末期(12世紀中頃)に地域内外の民衆により始められたとされます。

今宮神社楼門へと続く今宮門前通の銀杏並木の黄葉と、大徳寺塔頭(道場)・龍翔寺の瓦土塀

今宮社楼門に続く門前通の銀杏並木の黄葉と瓦土塀

今宮門前通は、今宮神社南の北大路通と今宮神社楼門を結ぶ道路です。北大路近くに鳥居があり、同社参道にもなっていますが、その中ほどには大徳寺山内から続く石畳の通路が横断し、同寺の境内を貫く道でもあるという、一風変わった参道・車道となっています。また、秋の黄葉が綺麗な銀杏並木の際には、大徳寺塔頭(道場)・龍翔寺の、古瓦を埋め込んだ、趣ある「瓦土塀」が続き、共々見所となっています。

大徳寺境内と壮麗なその山門「金毛閣」

大徳寺境内と壮麗な山門「金毛閣」

大徳寺山門は下層が戦国期の大永5(1525)年に連歌師の宗長、上層が桃山期の天正17(1589)年に千利休の尽力により建造。上層に置かれた利休像が豊臣秀吉を怒らせ利休切腹の一因となったとする伝説で有名です。大徳寺は鎌倉末期の14世紀初めに大燈国師(宗峰妙超)が開いた小院を起源とし、元弘3(1333)年に後醍醐天皇が寺地を設定。室町幕府の冷遇や応仁の乱で衰退したのち、かの一休宗純が堺の豪商の援助を得て復興し、諸大名の帰依も受けて大伽藍に発展しました。

大徳寺塔頭・龍源院の枯山水庭園「龍吟庭」

大徳寺塔頭・龍源院の枯山水庭園「龍吟庭」

大徳寺は、古建築のほか、禅宗寺院特有の枯山水庭園の、日本屈指の宝庫となっています。禅の精神を具現化し、それに影響された日本文化の美意識や精神性の源として実に貴重な場所です。公開塔頭の一つ龍源院の方丈(本堂)も、戦国期の永正14年(1517年)頃に造られ、同種の建造物のなかでは最古かつ優れたものとして重要文化財に指定されています。また、苔の上に三尊石を配置する須弥山式庭園の「龍吟庭(りゅうぎんてい)」も、その北庭として同時代に造られたとみられる貴重なものです。

古い町家が軒を連ねる紫野の街並み

古い町家が軒を連ねる紫野の街並み

著名な古社寺やその文化財、史跡に恵まれた紫野ですが、近代明治以降に市街化され、現在では多くの人々の生活の場ともなっています。西陣などと同様に、伝統的木造軸組工法で造られた戦前築の京町家が数多く残り、落ち着いた街並みを形成しています。近年は、こうした町家を改装した、新しい業態のお店や宿も増え、新たな活気も添えています。現代の紫野は、禅寺に代表される厳しい修行と研ぎ澄まされた感性が存在する反面、実は大変庶民的で住みやすい街ともなっているのです。

建勲神社参道に続く紫野の家並みから覗く船岡山の緑

紫野の家並みから覗く船岡山の緑

写真は建勲神社の参道ともなっている建勲通から撮影。道奥に建勲社の鳥居が見え、山上の屋根はその社殿となります。紫野は、元は原野、その後は畑作地などが長年広がる郊外でしたが、現在はこの様に市街化され、かつて野に浮いた船岡山も、今では市街に浮く姿となっています。著名観光地と下町的生活が混在する京都らしい雰囲気や景観に加え、山まである珍しい紫野。お立ち寄りの際は、是非この全てをご堪能下さい。その際には、地元の美味しいお店と出会うなど、様々な発見もあるかと思います。

長尾工務店の所在地「雲林院町」

雲林院町の由来

紫野の大工さん 長尾工務店の所在地「雲林院町」も、工務店紹介で記した通り、平安初期(9世紀前半)に存在した淳和天皇の離宮にちなむ、大変古く由緒ある地名です。当初は「紫野院」と呼ばれ、天皇在位中に「雲林亭」と改名され、間もなく「雲林院」の名で呼ばれるようになりました。9世紀後半に寺院となり、現在も町域西端に同名の寺が現存しています。離宮時代及び平安前期の寺院最盛期には東大宮大路(現大宮通)の北端に2町(218メートル)四方の広大な敷地を有したとされ、ほぼ現町域とも合致しています。

雲林院の歴史

9世紀前半にその存在が確認出来る紫野院ですが、正確な開設年は判っていません。雲林亭を経て雲林院と呼ばれ始め、淳和天皇の次帝・仁明天皇の死後、その皇子・常康親王の御所となり、出家した親王がそこで父帝の供養を行っていたとされます。そして、親王の死の数カ月前の貞観11(869)年2月に親王から天台宗の僧・遍昭(へんじょう)に譲られ、以後寺院となりました。しかし、その後も風雅を楽しむ景勝地として長く貴人らに愛され、『源氏物語』や『枕草子』等の数多くの物語や随筆・日記・漢詩・和歌などの題材・舞台となります。また、「菩提講」と呼ばれる読経行事が有名となり、今宮社の「やすらい祭(鎮花祭)」共々、紫野の著名催事として、大変な賑わいを見せました。しかし、平安末期の12世紀頃から衰退を始め、鎌倉時代の13世紀には記録が途絶えます。そして、14世紀前期の南北朝期に、付近に創建された大徳寺の支院になったとされ、臨済宗に改宗します。その後は15世紀後半の「応仁の乱」で焼失し、江戸中期の宝永4(1707)年に旧境内西端の一角に建てられた、現存の大徳寺塔頭にその名が引き継がれました。

古代の離宮・寺院名を今に伝える大徳寺塔頭・雲林院

古代施設の名を今に伝える大徳寺塔頭・雲林院

古代雲林院の遺物は今の雲林院町内にはなく、その境内を継承したとみられる町域と町名が残り、町域西端の南北路・大徳寺通沿いに寺名を継いだ近世創建の寺が存在します。2町四方の規模とみられる古代雲林院はその敷地南で都から北上してきた大宮通と接続していたことが知られています。大宮通は雲林院の西に回り込み「清目縄手(きよめなわて)」として現大徳寺通付近を北上したとみられ、葵祭の斎王が上賀茂神社から雲林院の南にあったとされる紫野斎院に帰還した道とも推測されています。

長尾工務店最寄りのお社・玄武神社

紫野の大工さん長尾工務店最寄りのお社・玄武神社

玄武社は紫野雲林院町の東南にあるお社です。比較的小さな規模ですが王城鎮護の北方神・玄武(げんぶ)の名を持つ存在として注目され、祭礼の「玄武やすらい祭」が今宮社等の同祭と共に重要無形民俗文化財に指定されていることも特筆されます。正確な創建年は不明ですが「赤社」という名で室町期の15世紀半ばには雲林院跡に存在したことが知られています。御祭神は轆轤木工の祖とされる文徳天皇の皇子・惟喬(これたか)親王。長尾工務店もご近所のお社として折々奉仕させて頂いております。

雲林院町南端から見た新旧の大宮通の交点

雲林院町南端から見た、新旧の大宮通の交点

大宮通は大路ではありませんが、昔から地域の中核路として賑わっています。町域中心を南北に貫くこの道。実は昭和初年まで手前の建勲通との交差点で終っており、左の御旅飯店裏の今宮神社御旅所の敷地が続いていました。そのため道は交差点を境に新しい規格で拡幅されています。大宮通は古代天皇が雲林院に通った行幸路。それ故この付近に雲林院の正門「南ノ大門」があった可能性が高いといえます。いにしえから様変わりした紫野ですが、この様に古代の痕跡を今も街なかに宿しています。

説明

北大路通の北に続く新大宮通と商店街

昭和初期に拡幅延長された大宮通は、同じ頃通された北大路通と交差して北へと続きます。それらは市街拡大を見据えた戦前の都市計画の一環でした。新たな大宮通は「新大宮通」とも呼ばれ、町域とその北に長大な商店街を形成し、紫野北部に新たな賑わいを生みます。しかし、そこは元雲林院の境内。しかもその中心線上に当たるため、古代の御殿や本堂などの重要施設の遺跡や遺物が眠っている可能性があります。これも、古代の土地を記憶した古い地名とその範囲が絶やさず継承された賜物といえます。

大徳寺塔頭三玄院の土壁(左)と大徳寺塔頭龍翔寺の瓦土塀(右)
 大徳寺塔頭三玄院の土壁 / 大徳寺塔頭龍翔寺の瓦土塀